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閑話 サッカーを通じて思ったこと 8

実録1979年

「ジャパンアズナバーワン」が出版され日本が自信に満ちていた年である。

個人的にはそれどころではなかった。
2月、通信社の二次募集になんとか引っかかって、同期の女性の葉山の別荘で宴会をやっていた。
そこにロシア語学科必修条件5コマのうち3コマ落としていて卒業できないという一報が入った。
あわてて高校の大先輩でもある教授に、就職もきまっているからと泣きついて、ほかの教授陣に恩赦を説得してくれと懇願した。
先輩教授は次の日、2コマ分の教授は認めてくれたが、残りひとコマの教授が首を縦にふらないという連絡をくれた。
そのうち一般教養もひとつ足りないことが判明し、5年目突入が確定した。

4月まだ新学期が始まる前、イーグルの二年後輩のTから電話をもらった。
「広瀬さん、グレてるでしょ」
四谷のお濠端で花見がてら激励してくれるという。
動員された新二年生を並べて「人間インベーダーゲーム」をやった。画面のミサイルの代わりに投げた紙つぶてが痛いことはないが、花見の観客が集まり、二年生には恥ずかしい思いをさせた。
唯一師事していた特攻隊あがりの神父から宗教学の単位をもらう約束をして一般教養を確保し、さらにロシア語科の講義に行くと、「広瀬君、今年はもうあげるから」と教授に言われた。
かくして5年目ひたすらヒマになった。

授業もないのに四谷に行くと、2年後輩のNがメインストリートで待ち構えていた。
「広瀬さんヒマでしょ。遊んでくださいって言ったら遊んであげますよ」
素直に遊んでくださいと言うと、彼はおもむろに講義中の教室に行って廊下から顔をのぞかせた。それを見た彼の同期のSは観念したように筆記具をまとめて出てきた。これをもう一回繰り返し麻雀のメンツが成立した。まだ携帯電話のない時代の話である。

私がヒマな身で大学に残ったのを喜んだのはイーグルの後輩だけではなかった。
三つ後輩で歳は七つ上という神学生と前の年に知り合った。彼は大学を一回卒業して水道工事屋に就職し、現場で「啓示」を受けて神父を志したという。
全共闘世代の彼は、私を誘って主のいなくなった「キリスト教研究会」なる部室をせしめ、昔の夢を追った。
当時バチカンは、南米の「解放の神学」に突き動かされて、社会問題を扱う部門を造るよう全世界に発令した。信濃町にあるカトリック中央協議会にできた「正義と平和協議会」という担当司教もちゃんといる組織にも二人して出入りするようになった。

さらに時間があったので、渋谷区松濤にあった学習塾で国語の先生を始めた。
東急本店の奥にあるその塾は、松涛といっても隣町のラブホテルがちょうど向かいで、苦行中にカップルの出入りを報告する悪童たちを参考書でひっぱたくのが日常だった。

夏の終わりはイーグルの秦野合宿に行く。5回目である。
一年生のとき、秦野の街中で、テレサテンが七割というジュークボックス(!)のある居酒屋を発見し、毎年通っていた。
その年の二月、テレサテンは入国時パスポート偽造が発覚し国外退去になっていた。
日本に来れなくなった彼女を偲んで、その店の主人と是非とも呑みたかった。
数年後彼女は日本で復活し、さらにその数年後天安門事件を境に表舞台にあまりでなくなった。

その年韓国で、カトリックの「反体制」詩人金芝河が朴正熙政権下で死刑判決を受けた。
日本のペンクラブ、ベ平連、プロテスタント、カトリックが共同で抗議声明をだし、秋になって数寄屋橋でハンガーストライキを決行した。件の神学生も参加し、私は周りをウロウロして、ハンスト明けの朝、一緒に有楽町で牛丼を食べた。
別の日の共同記者会見では、神学生はあまり目立ってはいけないそうで、私が大江健三郎、鶴見俊輔が並ぶひな壇の末席に座った。
その年の10月朴正煕は暗殺され、次の年金芝河は釈放された。

10月新聞社の入社試験で、役員面接で歓談したあと、健康診断で落ちた。当時から血圧が高かったようである。確かにブン屋になっていたらもっと早死していたに違いない。
大洋ホエールズの親会社というだけで履歴書だけ提出していた一般企業に、落穂ひろいのように拾われた。
役員面接で「ロシア語科というのは5年かかるのかね」と言う専務に対し、「いいじゃないか、なあ」と私を拾った人事部長が助け舟をだした。

秋も深まったとき、一部に上がれるかという重要な試合だからと、2年下のキャプテンにリーグ戦への出場を依頼された。
私はゴール前に立ってただけでなんでもないシュートを取れずに敗退した。
2年前の一部二部の入れ替え戦にも出場し、1対0で負けて二部に落ちた。
結局イーグルではなんのお役にも立たなかった。鑑みれば役に立たないのはイーグルに限った話だけではないかもしれない。

12月ソ連がアフガニスタンに侵攻した。次の年のモスクワオリンピックは、日本を含め多くの西側諸国がボイコットする。
モスクワオリンピックで取材することは叶わなかったが、拾われた会社でいやというほどロシアとつきあうことになった。

12月イーグルの二回目の送別会で、後輩たちに押さえ込まれ、局部にサロメチールをかけられた。数人ならまだしも10人近くでは抵抗のしようがなかった。夏合宿で幾多の悪事の仇討ちを受けたのである。
押さえ込まれながら、暖かい気持ちになったのは不思議な感覚だった。

廣瀬裕敏

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