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1975年、新関東フットボールリーグ。一部昇格2年目のチームはあれよあれよの快進撃!
40年以上前のこととあって、記憶定かでない部分も多く、記録も試合結果のみが現存する。
ここでは、多くのメンバーの証言から、その実態を明らかにしていきたい。
まずは、当時コーチ的な立場でチームに関わった小野透さん(70年入学)に、振り返ってもらった。
ちなみに「星一つ」とは、エンブレムについている優勝の証しである。

75年このチームでリーグ制覇

75年このチームでリーグ制覇

新関東フットボールリーグ 1部優勝まで

上智大学サッカー愛好会イーグルの歴史で、これまで新関東フットボールリーグの1部において優勝したのは残念ながらと言うべきか、よくやったと言うべきか、いずれにせよ1975年の一度きりです。私が卒業した翌年のことではありますが、多少なりとも関わっていましたので優勝までの道筋を、私自身の思い出と併せて記してみたいと思います。何しろ40年前のことですので数少ない資料と私の記憶を頼りに辿ってみますが、もし誤り、不足等あれば皆さんからのご指摘、情報をお待ちします。

私が上智大学に入学し、イーグルに入ったのは1970年(昭和45年)の4月でした。 4月の下旬に練習試合に出場させてもらいましが、FWをやり相手のGKと交錯してあごの骨にひびが入り、翌日から1か月強入院するはめになり学校を入学早々休む苦い思い出があります。その時は先輩に5年生がおられ、いろいろ指導していただきました。新関東フットボールリーグには立ち上げ時より参加していたと聞いていますが、その当時は1部8チーム、2部10チームでした。イーグルは2部所属で、1部では中央大学同好会が強く、体育会の予備軍的存在でした。

当時のイーグルはその後もしばらく続いたように毎週火・木・土に真田堀グラウンドで早朝練習を行い、週末の試合もそのグラウンドで多くを行うことが出来ました。雨の日は土手や皇居でのランニングがありました。夏合宿は1年生の時は群馬の武尊高原、2年生が栃木の今市で行いましたが、3年生からは周りに何もなかった秦野グラウンドで缶詰になりました。また愛好会の位置づけ論議はいまもあるようですが当時も盛んで、特に初心者が多かった時代でもありサッカー技術の巧拙、練習への参加度合などで試合の出場者を決めるのに悩んだものでした。新関東フットボールリーグだけでは公式戦が少ないため、春の別リーグも新設しました。朝練のあとは昔も授業に出ずに雀荘へ直行したり、喫茶店でだべったりもしました(そう言えばパパスなんて喫茶店もありましたね)。昼休みも学食のあった古いビルのロビーにメンバーがたむろしていました。

さて新関東フットボールリーグの話へ戻ると、1970年は5勝1敗3分で3位となり惜しくも1部入替戦の出場はならず、翌1971年は2勝3敗2分で6位に終わりました。私が3年になった1972年は6勝1敗1分で2部Aブロック2位となり、教育大茗荷谷グラウンドでの宿敵日大生産工学部との2部3位決定戦(勝てば1部との入替戦に出場権)に臨みました。試合は開始早々に相手が一度もボールに触れないうちに2年生の金丸君が見事なシュートを決め先制。しかしそれからは防戦一方、全員で体を張ってゴールをよく守ります。ですが後半終了間際、BKに転向していた私がハンドを犯しPKで同点にされてしまう・・・。その後延長後半に1点を決められ、1部への挑戦権を手に入れることは叶いませんでした。チーム全員落胆しましたが、この悔しさが1部昇格への想いを強くし、翌年へ繋がったと思われます。

そして私が4年になった1973年のシーズンでは、私は初戦で腰を痛めその後のリーグ戦は出場出来なくなってしまいましたが、チームは順調で4年生から1年生までがうまく噛み合い、6勝2分でブロック1位となりました。2部の1,2位決定戦では日大経済学部に2-4で敗れましたが、成蹊大グラウンドで行われた1部の日大法学部との入替戦に臨みました。イーグルの作戦は、相手のキーマンであるFWに小川宏君を張り付け、彼が試合中にトイレに行くなら一緒について行け(笑)、という徹底したものでした。これには彼もイライラして本領を発揮出来ずに終わりました。試合は後半半ば過ぎまで0-0で白熱し、25分に小川純君、35分に沢村君がシュートを決め、念願の1部昇格を果たしました。私もこの入替戦に後半途中から出場し、思い出深いものになりました。

私は卒業して社会人となっていましたが、1974、75年とコーチ的役割でイーグルに顔を出していました。1974年は強豪の揃う1部で、4勝2敗1分の4位(3位とは得失点差)と健闘しました。1部の当たりは強く、ちょっとしたミスが失点に繋がるものでした。そしていよいよ1部優勝を成し遂げた1975年のシーズンです。この年のキャプテンはHBの横山君、GKは4年生の佐々木君、BKにも4年生の小川宏君、中峯君(前年はフィリピン留学で不在、留学中はフィリピン選抜にも選ばれました)それに2年生の松野尾君で固め、FWは高橋君→後藤君の必殺コンビがいました。チームの特徴は守りを固め逆襲で確実に点を取り勝つというもので、選手も辛抱の連続の試合でした。しかし選手個々が自分の役割に徹し、個性や個人技もあり、何よりも一人一人の芯の強さが優勝に結び付いたと言えるでしょう。具体的な戦績は以下の通りです。

 対 日大生産工学部 3-1
 対 早稲田稲穂   3-0
 対 早稲田理工   3-0
 対 中央同好会   4-1
 対 明治同好会   4-1
 対 慶応工学部   1-2
 対 立教同好会   1-0

6勝1敗。慶応工学部戦は勝てば優勝の硬さが出て敗れ、真田堀グラウンドでの最終戦に優勝がかかりました。スケジュールの都合か試合は平日に行われ、損保の営業マンであった私は仕事を抜け出して駆けつけたことを覚えています。この試合でも硬さがあって試合は押しているもののなかなか点が取れない状況が続き、後半にやっと1点をもぎ取り、勝利。この得点者、私は高橋君だと記憶していたのですが、先日、後藤君に会ったら「あれは横山さんだ」と言われてびっくり。当の横山君に確認すると「覚えていない」とのこと。得点者は謎のままですが、ついに念願の1部優勝!を果たしました。もう40年前の栄光の記録です。

1974年(昭和49年)卒 小野 透

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